Twitterとかnoteとかいらすとやまみれとか、文章入力のフォーマットに私は簡単に流される。
内容なんか何でもいいよ、と思っている。ごくごくお酒を飲みながら、生命体ですらないものの顔色を窺い「こっすかね、へへ」と文字を集めて並べていくだけ。
私がたまに文章を書く理由は単純で、快感を得たいからだ。
もし思い悩んでることがあれば文章にしたら楽になるよ。そう槇野先生は言った。
あれから何度もやってみたからよくわかる。ぐにゃぐにゃと収拾のつかない思いを尖った言葉で型抜きすると、周りのノイズめいた部分がごっそり削ぎ落とされて軽くなる。快感だ。気持ちいい。
しかし、最近の私には生地になる思いが何もない。何も思ってない。とりあえずこう思ってそうって思われてるかもしれないと思った思いを捏造し、手近な酒を吸わせてパンパンに膨らませ、速やかに言葉の型をその喉元に押し当てる。
つまり、「死にたい」って言いたくて生きてるけど「言いたくて生きてる」って書きたいだけで別に言いたくはないということ。
何よりも、何も今思っていないということ。
こうして、「生きものではないから」という理由で、培養されたたくさんの思いが現在もなお私の指により簡単に殺され続けている。たくさんの死体が、お酒を飲みキーを叩く私の足元で爪先に押し込められ腐っている。
死体と書いたが、それは私が今生きている側に立っているからに他ならない。私が死体かもしれない。切り捨てられ押し込められたぐにゃぐにゃの周りこそが思いの実体、実は生きている思いであって、私は自分から思いを生まなくなった時点でとっくに死んでいるのかもしれない。私の生死はどうでもいい。
昔書いた話をどうトレースしたって気持ちよくならない。型を刺した時のあのブチッて音とアルコールと私の三半規管をさっきみたいに早く同期させたい。
だから型抜きとお酒が好きなだけの私に真実や本質なんかどうだっていい