最初なので弁済法について書く。
弁済法には大きく分けて2種類ある。古代ギリシアから存在し現代社会でも日常的に用いられている投身弁済と、テリー・マドが1875年に確立した高揚弁済だ。
高揚弁済には3つの側面がある。ハイになればなるほど弁済の勢いが高まる単純比例の面、ナスがある一定の温度を超えれば油が染み込まなくなるエッグプラント浸透曲線の面、そして乾麺だ。
乾麺は一見すると面ではないが、それには4つの理由がある。まず漢字を日本に伝えた張澄が「面麺無相径庭(面は麺と大差ない)」と現在の安徽省にあるカラマシュの大木に残したとされる史実。次に山形県の郷土料理ひっぱりうどんに関して、目で見れば面が見える、音で聞けば面が聞こえる、けっちゅうら oy noy、たべてしんじょう。と伝えられる民謡からもわかる事実。3つ目に挙げたいのは前述のテリー・マドが記した遺書だ。だが遺書の冒頭にはこうある、「3つ目にはけして挙げないこと。私は普仏戦争中にムーズ川の河川敷で赤黒い3つの目を持った亡霊(ゴースト)に出会い忠告を受けた。瑠璃色の暗闇に目を凝らせば微かに盛り上がるコバルトの雪、これをけして踏んではならない。地雷なら痛くも熱くもない、あの夏、イクシンミアク(*神経衰弱に似た遊び)で夜通し遊んだ友の温かかった右手かもしれないからだ。」
「左手、ということはありえない?」
私は左手でグラスを傾けながら、左手に
ライムを取った。
「それはない。去年の紅葉の終わり、鉾岳へクライミングに行ったんだ。買い集めたギアについて相当ギークに語っていたが、両唇とも左手だった。僕の目が左手じゃない前提で証言するなら、だけれど」
ライムは冷たい。殺人事件なんてどうでもよかった。品川に雪さえ降らなければ私は棚原と今夜こうして生乾きのソールを合わせることはなかったのに。アクロヨガ、と呼ばれる二人組で行う運動なのだが、「今日は床がめちゃくちゃ汚いので靴は履いたままでお願いします」と面長のタイ人は低いトーンで言った。
「
ライムは大丈夫ですか?」
「見せて」タイ人は右手でそれを受け取った。「これは傷んでない」
私はタイ人に体を向けつつも、棚原の反応をこそ見ていた。カットされていない丸の
ライムを手に取った時、彼は私がそれをどう処理すると考えただろう。剥く?そのまま齧る?